Notes
Each time I reread it, I find new meaning…
オリアンハイという世界

物寂しい草原で一羽の鳥が旋回するも 泣くかのごとく

くぼ地の端で足枷をつけた馬が嘶くも 泣くかのごとく

 

 モンゴルの詩歌にオリアンハイというひとつの世界がある。

 

 ゆったりとしたデールを纏い、凍てつく冷気に髭や髪を白く凍らせて歩く彼の姿は、ウランバートルの冬の情景を彩る。簡素な作りのモンゴル服を着て、照り付ける日差しの下、長い髪の隙間から細めた目で太陽を仰ぎ、後ろ手を組んで歩む彼の姿は、ウランバートルの夏の景色を常ならぬ思案深げなものに変える。そのような不思議な人物である。

 何事にも動じない豪胆のようでありながら、極めて繊細な詩を綴り、それに心震わせ涙を流す。悟りきったような穏やかさを醸しながら、一方ではおそろしく政治的で《独りきりの運動》を設立し体制批判の声を上げる。全てを知り尽くした哲学者の風情を漂わせ、そのくせ日常のごくありふれた事柄にも驚嘆の声を漏らす。かつてはモンゴルを代表する経済専門家のひとりでありながら、市場経済の綾を未だ理解できず嘆き歎じる。老人のようでいて、髪や髭の奥にのぞくその顔はひどく聡明で若々しい。仏教の教義への造詣が深く、その一方でイエスをも信奉する。そんな、謎のような世界である。

 

 その世界の深部に触れることは容易ではない。しかし、そこに繋がるひとつの扉がある。それが彼の詩歌である。

 

     河畔の森の奥深く 風は匂いを失くし

     つがいの鳥たちが啼き交わす秋の宵…

     葉の落ちる数だけ 別れに身を窶す樹々から

     最後の一葉が風に放たれる

     太陽を手探りして暖をとる川の水面が

     ほんの一瞬 流れを止める…

 

 「風が匂いを失くし 鳥たちが啼き交わす秋」についての、想像することすら躊躇われるようなこれらの言葉たちは上質な詩歌のもつ色彩である。「葉の落ちる数だけ 別れに身をやつす樹々」、あるいは「川の水面」が「太陽を手探りして暖を」とり、「ほんの一瞬 流れを止める」というのは上質の詩歌のもつ感性である。こうした色彩と感性が入り混じる世界。

 

     融ける蝋燭のように身を屈めた月は

     険しき山の峰にまどろむ アモーレ

     ことばの果実酒はすでにこの胸に満ちた

     扉を開け放ち詩を聞くがいい

     接吻したまま死にゆくときこそ幸福ぞ アモーレ

 

 B.ヤボーホランの詩「アモーレ」と比較すると、オリアンハイのこの詩の言葉は、より繊細な描写によって成り立っている。「融ける蝋燭のように身を屈めた月」とはなんと美しい表現であろうか。このような月の下に「接吻したまま死にゆくときこそ幸福」と思えるほどの美しい女性が佇み、この詩行を読んだなら、真実に心を込めて読むことが出来たなら、その女性は至高の幸せを感じとれるはずだ。

 

     炎のように

     赤い一枚の葉が

     秋の風にちぎれ

     天上に舞いあがり

     山路を下る我と

     一瞬すれ違う

 

 この言葉たちもまた、彼の世界のある場所に永遠のものとなって刻まれている。山の稜から風に舞いあがった木の葉が、山を下りゆく人とすれ違う一瞬というのは、詩人であればこそ感じ取ることの出来る奇跡である。そもそも詩の本質は、提示された着想以上に、一瞬のうちの美を見出す感受性にこそあるといっていい。その瞬間の美を感じ取ることにおいて、民族の違いや生活様式、時代の変化に対応しようとする種々の試み、なんらかの宣言、地位や名誉、無垢な読者を洗脳する宣伝等の手練手管などは全く意味をもたない。ただ、その人物の内面世界が本物の詩的世界があること、それだけで十分なのだ。

 

 オリアンハイの世界は常ならざるものであり、人々の慣れ親しんだものとは趣を異にする不可思議な事象に満ちている。かつて彼は、

 

     封筒いっぱいの冬

 

という一行詩を書いている。たった一行の、「手紙」と題されたこの独特な詩には、余分な飾りが一切ない。詩人の世界に存在する、消え入りそうな忘却の郵便局の私書箱に、そのような手紙が届いたのであろう。どこか白々としたぎこちなさを漂わす、短く、冷たい手紙。手紙によって生じた心の疼き。こうしたひりひりとした疼きを知らない詩人は詩人とは言えない。あるいは、こうした痛みや疼きを感じたことのない人間は、人生を生きているとは言えないのではないか。

 

     …水辺の葦原に 声なき二羽の鳥

     傷付いた番いのようで 睦みあう番いのようで

     口を噤んだまま飛び立つ様は

     交わるかのようで 別れゆくかのようで

     たまらずそっと目を逸らす…

 

 はたして鳥たちは交わるのか、すれ違うのか? 鳥たちを案じて憂う詩人の心臓からこぼれ落ちたこの言葉は、現代のモンゴル詩におけるひとつの成果である。詩とはこれほどに峻厳で、これほどに苦悩に満ち、そしてこれほどに美味なものである。それはまるで、烈しい光を放つ太陽を見つめる瞳にあふれて流れる涙のように、そのような驚嘆すべき光の集積が注ぎ込まれる大いなる合流点なのだ。

 

 残念なことに、私たちの詩歌にはこうした言葉たちの蓄積が十分であるとはいえない。涙の粒のごとく、僅かに滴り落ちつつも、決して大きくはない器をいまだ満たすには至っていないかのように見える。その器をのぞき込み、極小の海を想像してみるといい。小さな水面に映る太陽を見て、その小さな海が「太陽を手探りしてあたたまっている」のを感じてもいいだろう。それこそが、私たちの獲得したものなのだ。

2005.6.2.